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笑いを生じ、かつ賢き忠言によって人生を教える書物は二重の喜びである(ファエドルス)


by schoolforpatriot

[再掲]日露戦争開戦の日

わしが愛国学園園長真・愛国無罪である。

今日は何度も当学園で取り上げてきた「奉天会戦」「日本海海戦」「二百三高地」「黒溝台会戦」が行われた「日露戦争」が始まった日です。

今から106年前の今日、明治37年(1904年)2月8日、旅順港内のロシア艦隊を日本海軍の駆逐艦が奇襲攻撃したのが日露戦争の始まりです。

ではなぜ日本は日露戦争を戦うことになったのか?

Wikipedia/日露戦争

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89

<引用開始>

背景

ロシアと日本の利権争いの場となった大韓帝国

大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満州を勢力下においたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。また日本は開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動を可能にするため、1904年2月23日に日韓議定書を締結し、開戦後8月には第一次日韓協約を締結し、大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。日本政府による推薦者を加えて影響力を確保し、他国への便宜供与を制約しようとの試みである他方で閔妃によってロシアに売り払われた関税権を買い戻すなど、その影響力を増していった。一方、高宗は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。


日英同盟
ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争などの勝利によってバルカン半島における大きな地歩を獲得した。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功した。これによりロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。

近代国家の建設を急ぐ日本では、朝鮮半島を自国の独占的な勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていた。朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年に租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置するなど、満洲への進出を押し進めていった。

1900年にロシアは清で発生した義和団事変(義和団事件)の混乱収拾を名目に満州へ侵攻し、全土を占領下に置いた。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図った。ロシアの南下が自国の権益と衝突すると考えたイギリスは危機感を募らせ、1902年に長年墨守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った(日英同盟)。日本政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら戦争回避派との論争が続き、民間においても日露開戦を唱えた戸水寛人ら七博士の意見書(七博士建白事件)や、万朝報紙上での幸徳秋水の非戦論といった議論が発生していた。

1903年4月21日に京都にあった山縣の別荘・無鄰庵で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰庵会談」が開催されたが物別れに終わった。桂は後にこの会談で日露開戦の覚悟が定まったと書いているが、実際の記録類ではむしろ伊藤の慎重論が優勢であったようで、後の日露交渉に反映されることになる。


直前交渉
1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。さらにニコライ2世やアレクセイ・クロパトキン陸軍大臣も主戦論に同調した。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何も無かった
セルゲイ・ヴィッテ首相は、戦争によって負けることはないにせよロシアが疲弊することを恐れ、戦争回避論を展開したが、これは皇帝達によって退けられた。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。

日本側では、この提案では朝鮮が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が複線化されるとヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるので、その前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。

ロシア側にとって、この通告がいかに突然であったかを知るには、ローゼン公使の対応を見てもわかる。ローゼンは戦争が起きるとは想像していなかったらしく、この国交断絶通告を受け取った際、「この通告が戦争を意味するものか」と小村寿太郎に聞いた。ニコライ2世も「わがロシア帝国と日本との戦争は有り得ない。なぜなら朕がそれを欲しないから」といい、日本は戦争を決断しないだろうと考えていたという。これに対し小村寿太郎は、「この行為は戦争を意味するものではない」と返答。(司馬遼太郎『坂の上の雲』より)この返答は、国際法上の解釈から言えば違法と言えるものではないが、この状態ではどの外交ルートもあるわけではなく、実質的には戦争開始の通告である。かくしてニコライ2世は、1904年2月10日、アレクセーエフに対し日本との戦闘行為を容認。戦争を決断した。

<引用終了>




当時の日本の首脳部はロシアが満洲、朝鮮を支配下に置けば日本が直接脅威に晒され、また、問題を先送りするとシベリア鉄道が複線化されて輸送力が倍になり、ロシア軍の極東への展開が容易になり、日本の独立が危うくなると考えてロシアとの開戦を決断しました。

日本はこの戦争での数々の戦いに辛くも勝利し、アメリカに講和を仲介してもらってポーツマス講和条約を日本に有利な形で締結することによって独立を確固たる物にし、欧米列強と対等の地位を得ました。

日露戦争の勝利があるからこそ今の日本の独立、繁栄があるのです。

本校/日本史上最大の危機! 黒溝台会戦開始の日

http://blog.livedoor.jp/school_for_patriot/archives/50767914.html

でも書いたとおり、

この戦いに日本が敗れれば朝鮮、満洲、モンゴル、ウイグル、華北は確実にロシア帝国の領土となり、

日本はロシアの属国になり下がっていたでしょう。

チェチェン南オセチアのように国土が絶え間ない戦火に焼かれ、人々が殺戮や暴力におびえるような国になっていたかもしれない。

それを思えば日露戦争で戦い、亡くなられた英霊の方々に感謝の気持ちがわき上がってくるはずです。


日露戦争で戦い、亡くなられた英霊の方々に



敬礼!








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by schoolforpatriot | 2010-02-08 00:00 | 初等科